「そうか。ならば用はない」
人影はまた剣光を放ち、男の喉を瞬く間に突き刺した。
刃の先に注がれた剣気と鮮血が入り混じり、不気味な血腥さが漂う。 人影の口元が僅かに動いた。「必ずや…この手で見つけ出し、遺恨を晴らす…」
人影は、苛立ちを込めた表情で剣の柄を力強く握り締め、地鳴りを轟かせるように地面を穿った。
・ ・ ・ 翌日。 蘭瑛《ランイン》は賢耀《シェンヤオ》がいる宮殿で、痙攣するかのように顔を引き攣らせていた。「ねぇ、お願い!一緒に永徳館《よんとくかん》へ来てよ。蘭瑛先生がいてくれたら、きっと永憐《ヨンリェン》兄様も許可してくれるから〜」
どうしても永憐の稽古に参加したい賢耀は、蘭瑛同席なら、稽古に参加してもいいんじゃないかと、打診してきた。
賢耀の身体はもうほぼ回復していた。 しかし、異様な回復劇だったものの、まだ回復してから二日しか経っていない。 蘭瑛は悩みながら梅林《メイリン》と顔を見合わせる。 梅林は大きく息を吸いながら、頬に手を当てながら呟いた。「そうねぇ〜。とても元気そうだけれど…。永憐様が何ておっしゃるか…」
「ん〜、ですよね…」
蘭瑛は目尻を垂らし、困り顔で続ける。
「それに…私のような部外者が永徳館へ行ったら、怒られませんか?」
「それは問題ないと思うわよ。毎日、黄色い声が飛び交っているから」
梅林はクスクスと笑っている。
(黄色い声?虫か何かか?)
女の熱烈な感情に疎い蘭瑛は、その声の主が何か分からず、首を傾げた。
賢耀は吹き出すように高笑いし、「行ってみれば分かるよ」と言った。蘭瑛は賢耀に、半ば強引に連れて行かれ、仕方なくといった様子で、永徳館へ向かうことになった。梅林は食材を取りに行くと言って、途中で別れた。
宋長安の宮殿内はとてつもなく広大だ。少しでも迷ったら、客室どころか藍殿にすら戻れないだろう。蘭瑛はキョロキョロと辺りを見回しながら、進んだことのない道を、賢耀たちに続いて歩いていく。 しばらく進むと、区切られた敷地内にある立派な木造の建物から、木刀のぶつかる音が何層にも連なって聞こえてきた。その奥では、物珍しそうな芸を見るかのように、宮殿内の女たちが、目を光らせて集まっている。 蘭瑛はその光景に思わず目を瞠った。 すると、突然。耳を劈くぐらいの拍手と歓声が沸き起こった。『キャア〜!永憐さまァ〜!』
「……」
(黄色い声というのはこれのことか…)
蘭瑛は思わず、苦虫を噛み潰したような顔になる。
永憐が袍や髪を揺らすたび、黄色の拍手喝采が起こり、中には興奮のあまり手拭いで目元を抑える者もいるではないか!(立っているだけで女を泣かせてしまうなんて…。なんて罪深い男なんだ…)
蘭瑛はやれやれといった様子で、賢耀の話に耳を傾ける。
賢耀曰く、以前は立ち入りを制限していたが、何度対策を講じても、覗き見する女子たちが後を絶たない為、今は邪物の訓練も兼ねて解放しているらしい。 「ね?凄いでしょ」賢耀は入り口の前で靴を脱ぎながら、蘭瑛に白い歯を見せた。
すると、永憐が賢耀たちに気づいたようで、こちらに向かって歩いてくる。 蘭瑛は賢耀の後ろで、永憐に向かって拱手をした。「耀《ヤオ》、もう大丈夫なのか?」
「もう平気だよ!永憐兄様。今日は、蘭瑛先生も連れてきたからいいでしょ?」
永憐は蘭瑛の顔をチラッと見た。
そしてすぐに、賢耀に目線を戻し、続ける。 「今日は剣の稽古だ。賢达《シェンダー》は握れるか?」「大丈夫だよ!ほら」
賢耀は、自分の剣を横向きにして楽々と鞘から抜き出した。ふと蘭瑛の目に、剣の根本に何かが刻まれているのが見える。
(『賢达《シェンダー》』というのは、皇太子殿下の剣の名前なのか〜)
綺麗な篆書《てんしょ》で彫られた文字を眺め、蘭瑛はまた目線を元に戻す。
当然ながら剣に疎い蘭瑛は、今からどんな稽古が始まるかは全く見当もつかない。とりあえず「無理はしないように」とだけ、背後から賢耀に伝えた。ここにいる者が全員、襟元を正し始める。
永憐と向かい合うように弟子たちが座り、挨拶を交わす。 永徳館の中は厳格な空気が流れ始め、こうして厳しい稽古が始まった。蘭瑛は一番後ろの壁面の前で、賢耀の様子を観察することになった。永憐は、賢耀を気遣ってか身体を使った激しい稽古ではなく、術の霊力で剣を操れるかどうかの稽古を始めた。剣を浮かせたり、手の動きで剣を上に持ち上げたりと、皆がそれぞれ鍛錬している。しかし、賢耀の観察を続けていると、賢耀だけ剣を手元に引き寄せることができず、剣を何度も床に落としてしまっていた。賢耀の霊力が極端に弱っていることに気づいた蘭瑛は、目の前の様子を紙に綴った。
永憐は賢耀に向かって声を張り上げる。
「耀!賢达をこちらに飛ばしてみろ!」
「うん!行くよ!永憐兄様」
賢耀は剣を浮かせ、利き手を伸ばして「飛べ!」と言うが、飛ばす力も弱く、永憐の手元に届く前に落ちてしまった。
「…霊力が弱っている。まずは、霊力を回復させてからだ。今日は瞑想し、全身の経脈を整えろ」
永憐はそう言って、落ちた賢达を拾い、賢耀に渡した。
賢耀は、自分の霊力が低下していることに酷く落胆し、最初の意気込みは全く消え失せてしまった。 肩を落とした賢耀は賢达を持って、蘭瑛の横に腰を下ろす。「ねぇ蘭瑛先生…。霊力はどうしたら戻る?」
「…ん〜、そうですね…。まずは、永憐様の仰るように経脈を整えましょう。手首を一度、お借りしてもいいですか?」
「うん、いいよ」と言って賢耀は、袖を捲って蘭瑛に右手を差し出した。
蘭瑛は、賢耀の右手首に自分の人差し指と中指を当て、経脈に触れようとするが、やはり経脈の流れを感じられない。「どう?」
賢耀の言葉に、蘭瑛は首を横に振った。
「そっか。じゃ、瞑想を頑張るしかないね」
賢耀は袖を元に戻し、遠いものでも見るかのように、永憐の姿を眺め始めた。
目の前で繰り広げられている激しい稽古を見ながら、賢耀は続ける。「瞑想も大事なんだけどさ〜、今は永憐兄様の動きを観察していたいんだよね〜。ほら見てよ。あの俊敏さと鮮明さ。どうやったらあんな風になれるのかなぁ〜」
賢耀の言葉に促された蘭瑛は、目線を永憐の方に向ける。
先の先まで動きが読めているのか、永憐は俊敏に降りかかってくる弟子たちの剣先を、何度も飛ぶように躱し、「遅い」「まだまだだ」「ぶれている」「弱い」と、冷たい一言を次々と放つ。 誰一人と、剣先を永憐に掠めることすらできないでいると、永憐は穏やに弟子たちを見守っていた宇辰《ウーチェン》を、前に呼び出した。「しっかり見ていろ」と弟子たちに言い残し、永憐は宇辰の前で、持っていた自分の剣を鞘から引き抜いた。
「お!永冠《ヨングァン》だ!」
隣にいる賢耀が、目を光らせて言い放った。
「ヨングァン?」と蘭瑛が言い返したあと、目線は永憐に釘付けのまま、賢耀は口だけを動かす。「うん。あの永冠《ヨングァン》っていう剣はね、かつて剣豪と呼ばれていた冠月《グァンユエ》という人が使っていた剣で、あの最凶の玄天遊鬼《げんてんゆうき》を滅多刺しにして、封印したと言われているんだよ。特殊な剣で、剣が認めた者しか鞘から抜けないんだって。ようは鍵付きの剣ってやつさ」
「へぇ〜…」「あれで斬られたら、普通の人間なら即死だよ」
その一言に、何故か蘭瑛は両親のことを思い出した。両親を斬った剣も、永憐の持っている永冠のように鋭く光っていた。
瞼を閉じれば、今も鮮明に思い出せるあの光景━︎━︎━︎━︎。(両親を斬った人は、今も宋長安のどこかにいるのだろうか…)
ふと、蘭瑛は永憐を見る。
一枚の花弁が儚げにふわりと舞うように、永憐は袍をはためかせ、宇辰の一撃を躱した。その姿は四大美人の一人と言われた西施《さいし》のように、とても美しかった。永憐の稽古が事なく終わり、蘭瑛は永徳館から自分の部屋に戻ってきた。賢耀の弱くなった霊力を補えるように、何か手立てが無いか、蘭瑛は出発前に借りた遠志の小さな本を捲り始めた。
(何の薬を飲まされていたんだろう…。毒の種類まで判明できたら良かったんだけどなぁ〜。それにしても、霊力と体力を同時に失くさせる毒なんて、よほど医術に精通する者じゃないと作れないと思うんだけど…。三家以外にも、特殊な医術を持った者がいるんだろうか?もしかして、玄天遊鬼がどこかで作ってるとか?)「んなわけないか…」
思わず独り言が漏れる。
それもそのはず。玄天遊鬼は、六華鳳宗を追放された際、開祖・六華鳳凰から全ての六華術を剥奪されたと聞いている。医術を使えるはずがないのだ。 蘭瑛は紙を捲るように次々と思考を巡らせていると、ある頁に書き記された言葉が、目に留まった。 『物事は常に大きく捉えよ。目の前にある小さなものが全てではない。迷いが生じたのならば、根本を見直すべし』「根本が分かれば苦労しないって…」
蘭瑛は、大きく溜め息を吐きながら、本を閉じた。
すると、部屋の出入口の扉からコンコンと音が鳴った気がした。何か物が当たったのか自分の聞き間違えか、蘭瑛はしばらく扉の方を見る。しばらくすると、またコンコンと次は少し大きな音が鳴った。蘭瑛は扉の前に移動し、閂をゆっくり引き抜く。そして、恐る恐る扉を開けると蘭瑛は思わず目を見開いた。そこには、以前賢耀の宮殿前で梓林《ズーリン》の横にいた女が、焦ったように息を切らした様子で立っていた。
その女の名は、秀綾《シュウリン》と言った。
衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら
「何故お前がここにいる?」 「おっと、これはこれは王国師殿。いやぁ〜、物凄い霊気を感じたので様子を見に来たんですよ。そしたら、あなたに出会した。何か特殊な霊気でも出されたのですか?」 目の前にいる端栄は先程会った端栄と同じだ。 しかし、感じた違和感をどうしても拭えない永憐はまた尋ねる。 「私ではない。剣先を光らせたのはお前か?」 「はて?私はそんな物騒なことはしませんよ。誰かと勘違いなさってるのでは?」 確かに感じた玄天遊鬼の霊気。今はパタリと消え、何も感じない。端栄が続ける。 「まぁ、ここは妖魔が頻繁に出没しますから気をつけてください。あなたとやり合って腕を無くしたまま朱源陽に帰るわけにはいきませんから、今日はあなたではなく、こちらの方に」 すると突然、端栄は蘭瑛に向かって瞬間移動するかのように飛び出し、永憐の隣にいた蘭瑛の身体を軽く突いた。 蘭瑛は急に眩暈を起こし、足元から崩れ落ちる。 「おい、蘭瑛!しっかりしろ!貴様!蘭瑛に何をした?!」 永憐は珍しく声を張り上げ、永冠の先を端栄へ向ける。 「彼女を抱えながら私と戦うのは無理でしょう。彼女の医術は素晴らしいと、玉針経宗の医家が言っていましたからね〜。術滅印で六華術を封じてみました。これで、あなたが今深傷を負っても彼女はあなたを救えない。気をつけてくださいね。それでは」 端栄が瞬時に消えた途端、黒い靄が周囲に広がり永憐の透き通った視界は瞬く間に遮られた。その靄から幾度となく屍が溢れ出し、永憐は意識のない蘭瑛を抱き抱え、蘭瑛が嵌めている翡翠の指輪に更なる強力な守護術をかけた。そして探知術を同時に発動し、永憐は全身に駆け巡る全神経を尖らせ永冠を振るう。何度も袍を翻しながら屍を次々と殺していくのだが…。 しばらくすると、驟雨が永憐の足元を濡らし始めた。 蘭瑛の頬にも驟雨が落ち、きめ細かい白い肌を伝って滴り落ちていく。 最後の屍を斬ろうとした刹那、突然黒い靄が消え、視界が明るくなったと同時に鋭利な刃を持つ鴛鴦鉞が永憐と蘭瑛を目掛けて飛んできた! 永憐は永冠で同時に躱したが、視界の眩しさに耐えられず、もう一発の鴛鴦鉞に気づかなかった。
永憐たちが橙剛俊の宮殿内に着くと、先に来ていた宋武帝と橙剛俊が激しく口論していた。 「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」 「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」 橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。 宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。 「お前、何か企んでいるのか?!」 「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」 宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。 橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。 「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」 そう言って宋武帝は踵を返す。 すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。 「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」 ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。 「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」 「分かりました。私たちもここを出よう」 永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。 先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。 「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」 深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。 永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。 するとそこに、橙剛俊の倅・橙風宇が一人、日傘で顔を隠す様にしてやってきた。 「兄様方にお話しがご